最愛の妹
2026年8月27日。木曜日。20時18分。
品川区 北條宅周辺。
「北條様。もう少しで到着いたします」
教会を出る頃には、もう日が落ちていた。わたしは教会の手配した車の後部座席へ乗り込み、窓から流れる夜景をぼんやりと見つめていた。
おそらく、麻由美との時間は更に無くなってしまう…… 助司祭の職務を緩和するという話もあったけど……。
『北條鮎香さん――貴女と霧峰さんには対霊能力者訓練であるELENA《エレナ》プログラムを今後受けてもらいます。今まで以上に厳しい訓練となりますが、北條さんならきっと乗り越えられるはず。他のAMGEメンバーもプログラムの強化を行う予定です』
助司祭の職務が緩和されたとしても、新たな訓練プログラムが始まれば時間的余裕は更に無くなる。退魔士としての基本訓練であるDIVA《ディーヴァ》プログラムも疎かには出来ない。自然粒子の制御技術や防御結界の高度な扱いは、今後更に重要になっていく筈。更に磨きをかけなければ、私は魔女に対抗できない。
由奈さんの失踪事件の事もある。米国捜査機関の調査も、近々協力しなければならない筈だ……。
こうも色々重なると、おそらく自宅にも満足に帰れない日が続くだろう……。
麻由美に今後は時間が出来ると言ってしまっているが…… 正直に事を話しても、悲しませてしまうだけかもしれない……。
どうしたら良いのか…… 頭の中は堂々巡りだった……。
「北條様、到着致しました。お荷物を降ろしますね」
考え事をしている間に、車は自宅へと戻っていた。ドライバーの女性スタッフが即座に降りて後部座席のドアを開く。
「いつもありがとうございます」
そう言って車を降りると、スタッフは素早くトランクを開けて私の荷物を降ろしてくれた。いつもながら教会スタッフには頭が上がらない。私達が職務に集中できるのも、彼女達の働きがあってのことだ。
「ただいまー」
明かりの付いた家。玄関に入ると、何やら美味しそうな匂いがした。
「お姉ちゃん、おかえりなさい」
ダイニングで、麻由美がエプロンを着けて料理を作っていた。その様子に嬉しくなった私。匂いからしてカレーだろうか?
「随分遅かったんだね。もう少し早く帰ってくると思ってたのに……」
「ごめんね麻由美。色々あって……」
何やら麻由美は色々と心配していたようだ。本当に申し訳なく思う。時計を見ると時間は20時30分を回っていた……。
「長野旅行――どうだった?」
「うん。色々あったけど、楽しかったよ……」
ダメだ…… 今回の旅行を思い返すと、複雑な思いで胸が苦しくなる。笑顔で楽しかったとはとても言えない……。
「なんだか微妙な言い方だけど――ホントに楽しかった? そういえばさ、昨日の夜に夢を見たんだ」
「……夢?」
「うん。お姉ちゃんがさ、なんだか一人で何処かに行こうとして…… 目の前に大きな川があった。だから走って行って一生懸命止めたんだ。それで――」
(麻由美…… まさか……)
『北條鮎香…… 今回は警告よ。貴女をこのまま連れ去りたい所だけど、邪魔が入ってしまったわ……』
私は思った…… 私を助けてくれたのは、女神アルサード様でも、真由様でも無く……。
唯一の肉親である、麻由美だったのではないか……と。
途端に両目から涙が落ち…… わたしは眼鏡を外し、気がついたときには麻由美に抱きつき大声で泣き出していた……。
「怖かった…… 怖かったよ…… 麻由美…… 怖い…… 麻由美…… お姉ちゃん…… ずっと怖かった……」
まるで張り詰めていた緊張の糸が切れたかのように…… 私の中で様々な感情が行き場を失い、ただ麻由美を抱きしめ、大きな泣き声を上げる……。
何処まで泣いても…… 涙が止まらない……。
「お姉ちゃん……」
泣きじゃくる私を、麻由美は静かに抱いてくれた。その温もりが、私の怯えきった心を優しく慰めてくれる……。
まるで母親にしがみつき泣きじゃくる子供のように、わたしは麻由美の胸に抱かれ、ただ泣いた……。
「もう…… 無理しないでよ……」
麻由美は静かにそう言った。その言葉の意味を私は良く分かっている……。
だけど…… もう引き返すことは出来ない……。
麻由美は私が守る…… この世にはびこる悪から…… 汚らわしい全ての存在から……。
「麻由美は…… 私が守るの…… 絶対に……」
女神アルサード様の祝福の光…… それが例え永劫の呪縛だったとしても……。
麻由美を守れるのなら…… わたしはそれで構わない……。
麻由美は私だけの――最愛の妹なのだから。
そして私は、ずっと麻由美を抱きしめながら、その涙が涸れ果てるまで、泣き続けていたのだった……。